第63怪『真夜中の奇跡』

第63怪『真夜中の奇跡』

サッカーを始めたのは12歳の時だった。

僕らの時代は圧倒的に野球人気だったので、
サッカーというスポーツ自体がマイナーだった。

進んだ中学はサッカーの強豪校だった。
学校中の不良を入部させサッカー漬けにしたら
都大会で優勝したという実績を持っていた。

そんな漫画のような話は僕らが入った年にはもうなく、
区大会でいいところまで行ければ御の字であった。

部室は体育館裏の倉庫だった。
真ん中に線を引き、野球部と共同で使っていた。
だから、線から出た出ないで
38度線みたいな諍(いさか)いが起きる。

なんだかんだと言っては
簡単に殴り合いになった。

気合いを入れるために
野球部が坊主頭にしてきたことがあって、
こっちは長髪にMG5やバイタリスという
整髪料でキメていたから、
思いっきりバカにしたら大乱闘になった。

奴らが読んでいる野球雑誌の表紙には、
『ナガシマ』や『オウ』が、
ダブダブのユニフォーム姿で笑っていたが、
おいらたちの読むサッカーマガジンでは、
ジョージ・ベストが毛皮のコートを着て、
モデルの姉さんの肩を抱いて微笑んでいた。

しかし、世間でのサッカーの認知度は低かった。

そんな僕ら自身も、
やりながらルールを覚えたりしていた。

オフサイドはあったが、
センターフォアードはなんにも守備をせず、
敵のバックスの手前で
味方から来るボールをひたすら待っていた。

センターバックはスイーパー(掃除屋)と呼ばれ、
とにかくきたボールを遠くに蹴り出していた。

試合が相手のペースになるとキーパーにバックパスをした。
キーパーはそれを掴んで時間稼ぎをする。
それをなん度も繰り返したのでルールが変更になった。

フォアード登録は5人だった。
センターの両横にいる二人は今でいうシャドウだろう。
その外側がウィングと呼ばれるのは今と同じで、
僕は右のウィングだった。

敵のバックスをかわして
走り抜ける時の気持ちよさは格別で、
後に危ない場面から逃げる時に役立った。

高校もサッカー部に入った。

しかし高専だったので全国大会にも出られず、
つまらないのでやめてしまったということにしているが、
本当はタバコを吸い、色々とラリって、
スポーツ精神が飛んでいってしまったのだ。

それでもワールドカップは見た。

多分、高校生の時からワールドカップの決勝戦は全部見ていると思う。
(リアルタイムにテレビで放映された試合に限るが)

会社員になり、
サッカー部だった輩に会うと意気投合した。
なんでこんなに面白いスポーツが
日本では認知されないんだろうと悔しがり、
ひたすらに飲んでは翌日の仕事をパスした。

そのうちに衛星放送が始まると
日本でもワールドカップが
認知されるようになってくる。

僕らの頃のサッカーは企業スポーツだった。
午前中だけ仕事をして
午後は出張扱いで試合に行ったり、
練習に取り組んだりする
出世の見込みのない社員という立場。

就職してもサッカーを
続ける仲間たちは、
そう割り切っていた。

そこにジェイ・リーグが始まるのだ。

突然に走り出す日本の国民たち。

その先頭に立ち、
「サッカーの醍醐味ってさぁ!」って、
長い間の喜怒哀楽を叫びたい気分だった。

少しして、信じられないことに
日本がワールドカップに出場することになる。

そこからは、まるで、
まわり舞台でも見ているように
サッカーを取り巻く景色は変わっていき、
気持ちよりも先に情報の方が先回りして
フィールドを埋めてしまう気分なのだ。

それでも、あの緊張感は格別である。
何事にも変え難い特別な瞬間なのだ。

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小学6年の時に近所の芝生で
友達とサッカーを始めた。

キーパーとキッカーを交代しながら、
日が暮れるまで毎日続けていた。

頭の中には、ペレがいて、
ジョージ・ベストがいて、
釜本がいて、杉山がいて、横山がいて、
その先に夢のようなワールドカップがあった。

そのワールドカップに日本が出られるだけでも満足なのに、

そこで1点入れるだけでも嬉しかったのに、

ましてや、1勝するだけで眠れなかったのに、

「ついに、ブラジルと試合をするんだってよ!」って、

アメリカに渡ったまんま所在がわからない
その時の悪友に言ってやりたいと思う。

人生が長いのか短いのかわからないけれど、
その中で起きる奇跡はそう多くはないだろう。

いや、奇跡なんだから
一度も起こらないのかもしれない。

そう、今夜、真夜中に起きる奇跡以外には…。

(2026/06/29)