第46怪『幸せの記憶』

第46怪『幸せの記憶』

思い出す限り、
初めて幸せな気分を自覚したのは
17歳の夏だった。

地元で行われていた花火大会で
彼女と待ち合わせをしていたら、
人混みの中の死角から
幻のフックを放つように彼女が現れた。

赤いタンクトップを着て、
その彼女が笑顔で腕を絡ませてきたとき、
予期せぬ至福感がゾワッと
込み上げてきたのを覚えている。

“他には何もいらないな“
そう思ったのだ。

でも、そのまま浮かれて、
まとわりつく犬のように付き合っていたら、
落ち葉が散る頃にあっさりとフラれた。

………………………………………………

次の幸せ感が訪れたのは26歳の初春。

北鎌倉に借りた
一軒家の縁側から眺めた桜吹雪の風景だった。

突然の結婚と同時に誕生した2歳になる娘が、
桜舞う庭でくるくると回っている。

僕の人生設計では、
30まではうだうだと実家に寄生して、
だらだらと好きな絵でも描いて過ごすつもりであった。

いわゆる、
今で言う“子供部屋おじさん“の典型を
目指していたのである。

しかし、
それを許さぬどっかの神様は、
突然に可愛い女の子を登場させ、
無責任なる自由の代わりに
責任ある価値観を与えたのかも知れない。

両手を広げながら
ずうっと回り続ける天使を見ながら、
なんともいえない至福感を感じたのを覚えている。

その次の瞬間に黒船の来航のごとく
山口冨士夫艦隊が北鎌倉に現れるのだが、
娘の桜の舞は何よりも変え難い光景だった。

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3度目の幸せ感は、
その冨士夫が作ったティアドロップスが関係する。

北鎌倉で知り合った人生のゲームチェンジャーは、
タンブリングスをつくり、
シナロケにゲスト参加し、
ジョニー・サンダースや清志郎と交わり、
ティアドロップスでひとつのカタチになった。

コアな応援団は以前からいたのだが、
あまりにロックを地で行っていたために
なかなか世間が引いたまま近寄らず、
知る人ぞ知る存在なのであった。

バンドがやっと渋谷クアトロを
満杯にできるようになったころ、
照明も『魔法陣』という会社が付いた。

僕は照明ブースの横で
ステージを観るのが好きだった。
オペレーターのKさんが
魔法のように作りだす色の光の中で、
時としてステージは未知の空間になる。

『魔法陣』の秘密兵器というか、
とっておきの目潰しスポットが
ステージのバックにセットされていて、
ステージのピークに放たれるのだが、
それを使用するのは一回だけと
決められているようだった。

「何度もやってくれよぅ」

と、頼むのだが、

「だめ、効果的じゃなくなるから」

と、Kさんはにべもない。

“そろそろピークだな“

ステージの後半に差し掛かり、
僕は照明ブースからフロアに降り、
会場の中心に向かって進んだ。

MCもなく、ぶっ続けに曲が演奏され、
息をつく間もなくエンディングに向かっている。
こうゆう構成は十代からステージに立つ
冨士夫の真骨頂なのだ。

客のエネルギーがピークに達したと思われたとき、
“いきなりサンシャイン“のイントロが始まった。

「今夜は来てくれてありがとう!」

フロアの底から
うねるような客の歓声が沸き上がる!

🎵今夜これから始めるRockn Roll night!🎵

ステージ終わりのタイミングに
ステージが始まる曲を演るギミックを感じて、
客自身もこれがラストソングで
あることを確信しているようだ。

バンドのメンバー全員が
ステージの前まで躍り出て来た。
会場のボルテージが一気に上がり、
エンディングのコーラスと共に
横揺れのテンションがMAXに達した、
そのときである!

“ビカッ!“と、
ステージバックから目潰しスポットが放たれ、
一瞬のうちに目の前が真っ白になった。

とたんに、
爆音の渦の中で意識が宙に飛び、
背中を走る電流と共に
僕の心はなんともいえない
至福感に包まれるのだった。

………………………………………………

しかし、バンドに関わる様々なことは、
割り切れない事も多い。
ほんとうに好きでなければ、
やり続けるのは難しいのかも知れない。

僕にとって『Teardrops』の終焉は、
ものすごい解放感があった。

これからは自分のことだけを
考えて行動すればいいのである。
真夜中に呼び出されることもないし、
24時間が自分のモノになるのだ。

そう思った途端に、
たまたまだったのだろうが、
仕事がスムーズに舞い込んできた。

徹夜で仕事をし、
ここぞとばかりに呑み歩いた。

ある日、
夜通し遊びまくったあげく、
直角に曲がりながら家に着く間近で、
アスファルトの道が
ゆっくりと顔面に近づいてきた。

そのときのスローモーションのような光景と、
アスファルトの固く冷たい感触を覚えている。

“あぁぁぁ……気持ちいい…幸せだぁ…“

と、確かに思った。

あれは、42歳になった冬のこと。
酔いどれて路上に行き倒れ、
カタツムリのように
住宅道路にほぼずりをしていた。

そのとき、何故か
冨士夫が想い浮かんだのである。

冷たい路上に頬を寄せながら、
こんな最低な自分が愉快だった。

そう思いながら、
しばらく至福感に浸っていたのだ。

………………………………………………

好きなことばかりやって、
好きに生きてきた人生だと思う。

しかし、そのぶん、
家族や母親には苦労を
かけていたのかも知れない。

僕が56歳になる真冬に母親は倒れた。
脳梗塞であった。

リハビリもしたのだが
左半身不随の生活を余儀なくされた。

親戚は施設入りを勧めたが、
何故か眼中にはなかった。
金はなかったが、
時間だけはたっぷりとあったのだ。

その頃も関わっていた冨士夫には、
“母親の介護に専念する“
軌道修正を伝え、
彼の住んでいた羽村通いにも終止符を打った。

手術をし、
入院に3ヶ月、リハビリに3ヶ月、
自宅に帰って来たときは初夏になっていた。

石神井公園に近い一軒家を借り、
子供たちや親戚の協力を得て、
母親の介護をする環境を作った。

荷物をすべて家に運び込み、
まだまだ片付いてはいなかったが、
ひと段落ついた、その時だった。

「引越し蕎麦でもとるか!?」

子供たちにひと声掛けた瞬間、
ブワーっと、予期せぬ至福感が
心の奥から込み上げてきたのだ。

絶望感が当たり前のように日常を支配し、
選択肢のない毎日を送った果ての、
ほっとする瞬間だったのだろう。

これもまた、
幸せの記憶として心の奥に残っているのだ。

………………………………………………

幸せになりたいとか、
意識して思ったことは一度もない。

僕の場合、
好きなことをやりたい、とか、
好きに生きたいとかの思いに
変換されちゃっているのかも知れないが、
その瞬間は案外、
無意識の中に隠された感情なのかも知れないと思う。

ユーフォリア(Euforia/Euphoria)という言葉がある(英語読み)。

イタリア語で『幸福感』を意味する。

薬学では、『多幸感(強い幸福感)』に用いられ、
景気循環の表現としては、
『熱狂的陶酔感』として使われるという。

生きているとさまざまなことがあり、
時には呆然と立ちすくむこともあるだろう。
でも、そこをなんとか乗り越えれば、
新たなる『ユーフォリア』も起こりうるのだ。

今年もまた年が明け、
新しい日常が始まった。

今年は『藻の月』を眺めるだけでなく、
積極的に接していこうと思っている。

もしかすると、久々の『ユーフォリア』が
月の奥に隠されているのかも知れない。

それを皆様と共に体験できれば、
この上もない幸せだと思うのです。

2024年、あけましておめでとうございます。

今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

(2024/01/08)

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⚫︎藻の月
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