第6怪『タクシーの車窓から』

第6怪『タクシーの車窓から』

少し『藻の月』軌道をそれた話をしてもいいだろうか。

母親が突然に逝った。
「さよなら」もなくである。

ふいに頭を殴られたらこんな感じだろうか。

いつもと同じ週末が、
長く暗いトンネルのように思えた。
その暗がりから抜ける時、
色々な想いがよみがえってくるのだ。

そもそも母親は全てにおいてコチラの味方だった。

「なんでも好きなことをやりなさい」

と言われながら育ったので、
こんな出たとこ勝負の男になり、
少しばかり申し訳なく思うが、
自分にとっての母親は
ラッキーな存在だったのである。

父親はわりと固かったので、
デザイナーという職業にも
不信なる考えを持っていたが、
母親はまったくの楽天家であった。

オイラが28歳の時にその父親が逝った。

それがきっかけで、
いろいろと制約されていた
タガがハズれたとでもいうのだろうか、
本気でバンドに関わる活動を
やろうと思ったのである。

母親はソレを応援してくれていた。
というか、長年の付き合いで
“仕方ないわね”
と、傍観していたのかも知れない。

とにかく、
“なんでも好きなことをやってやるゼィ!”
と、会社も辞めてフリーになると、
ますます自分自身と
向き合う事が多くなってくる。

“フリーのデザイナー”
というだけでも不安定なのに、
そこにロックバンドの
マネージメントが加わると、
霧の中を走る馬車のようになってくる。

ミュージシャンならわかるが、
「なんでマネージャー?」

って、よく業界のカッコつけから聞かれた。

それだけ奇異に映ったのだろう。
バンドマネージャーという存在は、
あまり聞こえが良いものでは
なかったのかも知れない。

そんな中でも母親は飄々(ひょうひょう)としていた。

時間も金もない息子のために、
2人の孫を預かり面倒を見ながら、
時には金の工面までしてくれた。

『TEARDROPS』を引き連れて、
シスコやジャマイカまで飛んでみたゼィ!
な〜んて言っている裏側で、
お袋が孫の弁当を作ってくれていたのである。

そんな母親を
一度だけ日比谷の野音に
連れて行ったことがある。

冨士夫が『ひまわり』という
ノブちゃんと(延原達治/プライベーツ)
一緒にやっていたユニットで、
リハーサルをやっていた冨士夫に、

「冨士夫!真面目に演りなさいよ!」

と言ってのけたシーンは、
前に『よもヤバ話』にも書いたが、
あの頃が、お袋の人生の
絶頂期だったのかも知れない。

息子からは、
あれこれと売れてきたような
バンドの自慢話は聞くが、
いっこうに経済が上向かない
我が家の日常を見て、

「やっぱりこの子は嘘つきなんだわ」

なんて思わせていたのかも知れないのだが、
「しっかりしなさいよ」とは言われても、
マイナスな言葉を浴びせることはなかった。

ダイナマイツの
山口冨士夫と離れたら、
今度はテンプターズの大口ひろしと
仕事をしている息子を見て、

「つくづく好きなんだねぇ」
みたいなことを言っていたよーな気がする。

…………………………………………

そんな母親が75歳の時、
突然に脳梗塞で倒れた。
もともと心臓が悪かったのだが、
心臓の血栓が脳に飛んだのである。

そこから、
お袋の人生のシナリオは一変した。
半身不随となり車椅子での
完全介護を余儀なくされたのだ。

家で介護することになり、
ベッドや簡易トイレから
生活できる必要なものを全て揃え、
明るい介護生活が始まった。

と思ったら大間違い、
介護とはまさに精神力との闘いに等しいのだ。

とりあえず、僕は、
音楽もデザインも辞め、
安定した仕事を選ぶことにした。

それでいて、
いつでも家に戻れるスタンスの仕事。

「タクシーだな」

そう思い運転手になったのだが、
コレが意外にも性に合っていたのだ。

なんせ、50代半ばになるこの頃まで、
絵を描くか、
広告を作るか、
本を作るか、
バンドとつるむか、
そこらで遊んでいるか、
しかやったことがなかった人生である。

もともとがいい加減な性格で、
好きなことしかやらないと
決めていた人生だったので、
良い時は遠慮なく悦に入り、
悪い時は馬鹿なふりをしていたのだが、
タクシーに乗り、
お客さんと対峙すると、
世間と自分との生きる価値観の違いに、
唖然としたのを思い出す。。

最初、タクシーの運行は、
いつでも母親の居る家に帰れるように、
近所をくるくる回る
まるで伝書鳩みたいなもんだった。

家では、我が奥様が
母さんの面倒をみてくれていたのだが、

「助けてぇ〜」

って、メールがくると飛んで帰る。

すると、
ベッドに移る際にうまくいかず、
尻餅をついたままの母親と、
はぁはぁと力尽きた奥様が、
まるで困った犬のような目をして
コチラを伺うのである。

“このままやっていけるのかしら?”

真剣にそう思った。

ソレでも、
月日が経つにつれて
色々なことに慣れてきて、
お袋もディ・ケアに
普通に行ってくれるようになり、
不自由な身体の母親と、
不自由な時間を強いられる僕らとの、
途方もない年月が11年間続いたのだ。

そして、昨年の夏、母親は入院した。

リハビリ病院から施設へと移動し、
コロナ禍の中で
ずっと会えないでいたのだった。

…………………………………………

今、僕の中には、

楽天家で気が強く、
主婦になるのを嫌い、
都の職員として退職するまで働き、
許された時間で、
海外や日本中を旅して周り、
絵を描き、習字やお茶を嗜み、
“なんでも好きなことをやりなさい!”
って息子に言ったら、
孫の面倒まで見させられた母さんと、

予期せぬ半身不随になり、
歩くこともできず、
車椅子に座ったまま11年もの間、
悔しい想いをしたお袋がいる。

しかし、そのどちらも
かけがえのない母親だ。

タクシーの車窓から世間を眺めると、
道には老人が溢れている。

病院に通う高齢者は、
「コレが仕事のようなもんだから」
と口を揃えて言うのだ。

自分と同じように
介護をしている人を乗せることもある。
そんな時は必ずお互いの話になり、
軽い愚痴を交わして
日頃のストレスを発散する。

「でもね、ソレでもね、生きているうちが花だから」
とか、

「介護される方も辛いんだから」
とか言われて、

“家に帰ったら優しく接しよう”

と思ったりしたものだ。

人生の中でコレで良い
というタイミングは難しい。

いつもやり残したことがあり、
悔やむばかりなのである。

一昨日、ジョージと会い、
打ち合わせをした時に
母親をライヴに連れて行こうと思った。

荼毘に伏されるまでまだ数日あるからである。

ジョージに話したら、
奴もなんかヘンテコだから、

「良いんじゃねぇか」って笑うのだ。

その時は元気だった時の
母さんを連れて行こうと想う。

永遠に続いていく想いを
今の瞬間に置き換えられるのは、

“音楽しかない” と想うのだから。

(2021/07/22)

7月24日(土)原宿クロコダイル
藻の月 New Album『Casualismus』カジュアリズムRelease Party

出演
●藻の月●Ready Bug
●Hot Stars(Vo.佐藤ケンジ/Gu.Joe Kids /Gu.聖 /Ba.市川″James″洋二 /Dr.阿部孝宣)

Adv.2500 Door.3000
16:30open / 17:30Start

※緊急事態宣言中につき20時までの時短営業・アルコールの提供はありません。

16:30 OPEN
17:30 START
17:30~18:10 Ready Bug
18:20~19:00 HOT STARS
19:10~20:00藻の月

前売予約/kasuyaimpact@yahoo.co.jp

コロナ禍による緊急事態宣言により
ライブに来られない人のために、
『LIVE配信』を行います。
以下のURLをご覧ください。。
https://twitcasting.tv/livelive0826/shopcart/90269

●藻の月 New Album『Casualismus』カジュアリズム

定価2000円(税別)
※クロコダイルにて先行発売いたします。

限定特典としてステッカーがつきます。