第15怪 番外編/山口冨士夫とよもヤバ話『MAKIの思い出』

第15怪 番外編/山口冨士夫とよもヤバ話『MAKIの思い出』

最近、よく冨士夫の夢をみる。

相変わらずマネージャーとして
いろいろな問題に直面しているのだ。

先日などはセブンイレブンから
生配信する予定があり、
やけに暗い店内のカウンターの
奥にいる店長らしき老人に、

「今からここで生LIVE配信をしてもよろしいですか?」

と訊いていた。

セブンイレブンのカウンターが
ありえない塀のように高く、
その風呂屋の番台のような高みから
老人がニコッと笑ったので、

「よし、冨士夫、いくよ!」

って振り返ると、肝心の冨士夫がいない。
いったい何処に行っちまったんだろう?
って、探しまわっている夢である。

そこで、夢から覚めた。

きっと、クロコの生配信や、
ShowBoatの録画配信が
気になっているのだろう。
最近は音楽に関する夢見がとめどもないのだ。

…………………………………………

しかし、この頃つくづくと思うことは、
意外と人生は早回しだということ。

「一度、人生をあきらめてロックしてみようぜ!」

なんて、冨士夫にほだされて、
調子にのって覗いたつもりの横道が、
すっかりと根付いてしまった人生なのである。

きっかけは何だったのだろうか?
と、遥か遠くの景色を想い浮かべてみる。

それは1977年頃だった。
あの頃の僕は桑沢の2年で、
将来に何のビジョンもなく、
雑誌にカットイラストなんぞを
描いて過ごしていた。

そこに現れたのがMAKIである。

流行りのソバージュヘヤーに
デニムのスリムパンツをはいた18歳のMAKIは、
驚くほど天真爛漫で、
信じがたいほど世間知らずであった。

「お父さんは何してるの?」

「社長さん」

週末は参宮橋にある乗馬倶楽部で
「お馬さんに乗ってるの」
と言われて想像がつかなかった。

幼稚園から大学までつながっている
ミッション系の付属女子校に、
3人姉妹で通っていたのだという。

ちなみに当時の生徒会長は
ユーミン(松任谷由実)だった。

3つ上の長女はロンドンに留学中だった。
年子の姉さんは造形大で、
本人も武蔵美に入ったばかりだった。

今になって思えば、
どうやら、女子ばかりの
温室育ちのお嬢さんが、
何も知らずに世に放たれる瞬間に
僕は出会ったのだと思う。

歳でいえば、僕は長女と同学年であった。
つまり、MAKIの3学年上である。 

余談だが、71年にイギリスのバンド
『Free』が来日したとき、
ヴォーカルだったポール・ロジャースが
何人かの女の子と付き合ったのだろうが、
その中の1人が長女であった。
ポールは長女のボーイフレンドとして、
彼女の家庭にも招かれている。

長女がイギリスに留学したのには
そんな背景があるのだろう。
(実際に日本女性と英国ロッカーのカップルは多いよね)

さて、MAKIだが、
温室3姉妹の末っ子ということもあり、
その世間知らずぶりは尋常ではなかった。
自慢ではないが、
僕も相当に幼稚な軽薄人間であったが、
MAKIの前ではお兄さんになれた。

「そっち行っちゃ駄目だよ、そこまでなら、まぁ、いいか」

みたいな付き合いかただった気がする。
放っておくと何処に行くかわからないのだ。

そんな曖昧な付き合いかたに
神様が苦言を呈したのかも知れない。

まるでドラマのダイジェストを見るように
様々な出来事が起き、
付き合って2年後には
可愛いい女の子が誕生したのだった。

二十歳の成人式と大学の卒業式(短大)を、
母親として迎えたMAKIは、
卒業旅行と称して沖縄に行き、
僕が迎えに行った春先には、
ふっくらとしたお腹を
竹富島の砂浜に埋めて温めているところだった。

ちょうどキャンディーズの解散曲、
『微笑がえし』が巷で流行っていた。
繰り返し繰り返し世間に流れている、
♪私たち、お別れなんですねぇー♪
のメロディを聴きながら、
急遽、就職活動をしたのを覚えている。

″これで独身ともお別れだな″

なんて、怠け者の身を正すには
ちょうど良い頃合いだったのかも知れない。

結婚して2年も経つ頃には、
僕らの生活は随分と変わってきた。

まるで子供が子供を育てているような
MAKIの母親としての在り方も、
次の段階を迎えていたのである。

「鎌倉に住みたい!」

僕の実家暮らしに不満を表したMAKIは、
我慢したあげくに次のプランを叫んだ。

言い出すと聞かない性格で、
76年の春、僕らは北鎌倉に移り住んだ。

紫陽花寺の近くの踏切を越えたところ、
裏山からは四季の移ろいが舞う、
とても景観豊かな環境であった。

その北鎌倉の家に突然、
冨士夫が現れたのである。

そのくだりは何度も書いているので、
ご存知な方も多いと思うが、
ここまでのストーリーをあらためて書くと、
僕の人生にとってその登場の仕方は
あまりにも突然としか言いようがない。

MAKIの大学時代からの親友が
冨士夫を連れて来たのであった。
何の前触れも無しに。

そこからは人生の舞台が大回転して、
側から見ると面白いように
新展開をしていくのだが、
本音を言うと、
それは僕自身が望んだ展開ではなかった。

しかし、すぐに考え方を切り替えた。
そう、MAKIが大喜びだったのだ。
22歳のエネルギーを発散させて
ロックを奏でる世界と共鳴していったのである。

彼女はまだ若かった。
2歳の子の母親なのだが、
22歳の天真爛漫な女性でもある。
女子ばかりの温室育ちの窓から野に出て
たった4年しか経っていなかったのだ。

冨士夫たちが我が家に住み込むことになり、
だんだんと生活自体も面白くなってきた。
″良い人″の冨士夫だったので、
一緒に住んだ半年間は楽しかったし、

2014012902210000

その後の″変身した冨士夫″に接しても、
本来の姿を想い浮かべる事ができたのである。

ほんの興味本位で覗いてみた横道は、
主役が″あの山口冨士夫″だったので
次第に本道になっていき、
何も知らない素人マネージャーでも、
訳知り顔で腕組みポーズができた。

しかし、その頃になると、
MAKIの思いはまた違う世界を彷徨う。

娘に続いて、5年後に息子が誕生した。
そのタイミングで、
共にMAKIの姉の住むイギリスへと旅をした。
僕は能天気なのでいつでも楽しいのだが、
その時の彼女は曇りがちだったらしい。

「あのときは暗かったね」

と、最近になって訊いたことがある。

「あの頃はトシが嫌いだったから」

と言う言葉が返ってきた。

その理由はわからない。
思い当たる節はごまんとあるが、
今さらわかっても仕方ないのだと思う。
MAKIはいつもそんな感じなのだから。

MAKIは想いを溜めるタイプなのだ。
嫌なことがあっても我慢して、
ウップンが満タンになると
いきなり爆発して周りを驚かせるのである。

娘が11歳、息子が小学校に入るとき、
MAKIは家を出た。
自由になりたかったのだと思う。
ちょうど『TEARDROPS』が終わる時期と重なる。

とたんに何もかも困ったが、
わかるような気もした。
バンド活動は大変だったが、
それに見合う経済は作れなかった。
僕はやりたい事をやっていたので、
何があっても納得づくであったが、
彼女は気持ちの行き場がなかったのだと思う。

それからのMAKIは自由だった。
高円寺に住み、国立に住み、
一人暮らしのスペースを確保して、
寂しくなると子供たちに会いに来た。

悩んだり、はしゃいだりを
繰り返す日々の中で、
毎年のようにバリ島、フィリピンを旅して、
その度に新宿にあるリムジンバスの
ターミナルまで送迎したことを思い出す。

恋多き人生だったので
何人もの彼氏ができるのだが、
その度になんとなく僕に紹介した。

そう考えると、やっぱり僕は
MAKIの兄さんだったのかも知れない。

不幸なことは、1型糖尿病を発症したこと。
インシュリンが欠かせない
人生になったことである。

少し前までは躁鬱状態になることがあり、
季節ごとに人格が変わったりした。

躁状態のときはハイテンションで連絡が来る。

「バリ島に行ってくる!」
と叫ぶのである。

そんな時は、
はやる気持ちを抑えさせ、
(もう海外旅行は無理があるので)
種子島に居る友達に
お世話になったりしていた。

いっぽう、鬱状態になると何の音沙汰もない。
メールの既読もつかない。

「父さん、覗いてみて」

娘からのメールが来て、
MAKIの家にパトロールに行くのである。
僕は石神井、MAKIは大泉に住んでいるから、
散歩がてらに行ける距離だったのだ。

3年前からは、MAKIの母親も大泉に来た。
少し痴呆気味になった母親を
近くに住まわせることにしたのだった。
 
大泉の駅近くのアパートで、
MAKIと母親が別々に住む生活が始まった。

しかし、とうとう
去年の年頭にMAKIの母親が亡くなった。

再びMAKIは1人になり、
娘と息子のMAKIに対する心配は、
日常化していったのである。

最近のMAKIは貧血で倒れたり、
身体がゆうことをきかなくなってきて、
油断できない状態であった。

それでも、
近所のジムでボクシングをやり、
絵画教室にも通う意欲のある生活。

僕はMAKIが毎月通う病院の送迎を努めた。
みんなでMAKIを支えることにより、
僕と子供たちの絆は久しぶりに
密になっていく気がしていたのだ。

年も明け、正月の2日に
みんなで集まろうということになった。

夕方にMAKIを迎えに行き、
娘と息子の家族全員がウチに来る。

年末から買い出しをして、
御節と料理を用意し、
孫たちのためのお菓子も買った。

あとはMAKIを迎えに行った子供たちの
到着を待つのみだったのである。

…………………………………………

生きていくことが大変になるのは、
いったい、いつの頃からなのだろう?

若い頃は直感的で、自分探しの向こうに
いろんな景色が見えるような気がしていた。

そんな坂道を上がり、
見ることができた景色は人それぞれである。
健康であれば考えられる人生設計も、
体調を崩すと話が変わってくるのかも知れない。

そして、僕らのような
人生のベテランになってくると、
いつ何があってもおかしくないのだ。

しかし、この日は、想定外であった。
さすがに覚悟をしていなかったのだ。

MAKIは元日に永眠していたのである。

椅子に座ったまま
逝ってしまったMAKIを
娘が迎えに行ったことを想うと、
張り裂けそうな感情に襲われる。

テーブルの横にある棚には、
孫たちに渡すお年玉が並べてあった。

その上の壁に掛けてある
新年のカレンダーには、
1月の予定が楽しそうに
書き込まれているのだった。

…………………………………………

想い起こせば、
僕の人生を変えたのはMAKIである。
冨士夫に出会ったのもMAKIがいたからだ。

この歳になっても
音楽をやる愉しい仲間たちと居られるのは、
MAKIの軌道修正のおかげだと思っている。

MAKIちゃん、
愉しい時間をありがとう。
ゆっくりと家族とお過ごしください。

″あけましておめでとう″

やっと天国で家族全員が揃ったんだね。

3姉妹が華やかに笑い、
それを眺めて呆れたように微笑む
御両親を思い浮かべるのだった。

(2022/01/11)

ps/

MAKIが8年間飼っていた″のんちゃん″が、
突然の独りぼっちに沈んでいる。
ウチは猫アレルギーでダメなのです。
(5人に1人はアレルギーらしい)

″誰かもらってくれないかにゃ〜″

引き受けてくれる方がいらっしゃれば、
メールをいただければ幸いです。

kasuyaimpact@yahoo.co.jp

よろしくお願いします。