第31怪『親父の命日』

第31怪『親父の命日』

実に私ごとなのだが
今年も親父の命日が近づいている。

毎年、この季節になると思い出すのだ。

親父が逝ったその年は
色々な意味で人生の分岐点だったので、
今でも印象深く残っているのかもしれない。

余命二ヶ月と告げられた親父の時間は、
10月の時点で半年近く延長されていた。

僕は毎日親父の病室に通っていて、
段々と弱っていく親父の身体をさすっていたのだ。

現実とはおかしなもので
絶望感の中で毎日を過ごすうちに、
その悲しみが当たり前のようになっていき、
深く沈んだ気分の中でも
平気でいられる自分がいたりする。

それでも、もう駄目だって、
絶望感の上に判子を押したような気分になった夜、

「帰りに美味しいものでも食べましょう」

と言うお袋と共に、
目白の椿山荘の前にあるフレンチレストランで、
生まれて初めてのフルコースを食べた。

まるで結婚式のように
一品づつ出てくるフレンチ料理を、
お袋と向かい合わせて無言で食ったのだ。

あれは一体何だったのだろう?

教師だった親父はとてもケチンボで、
蕎麦屋以外の外食を嫌った。
大好きな酒ももっぱら宅飲みで、
一番安いトリスウィスキーを
毎晩浴びるように飲んでいたのだ。

お袋はそんな親父の目を盗んで
幼い僕を連れて寿司屋に通ったりした。
カウンターでひとり寿司を摘む
お袋の後ろ姿を覚えている。

幼い僕は退屈だったので
いつもその店のあちこちで遊んでいたのだ。

「内緒よ」

って言いながら映画館に行ったり、
遊園地で遊ぶのはいつもお袋の方だった。

親父は世の中で一番小さな
軽自動車に乗って学校に通い、
夕方に帰宅すると着物に着替え、
酒を飲みながらスーパーのチラシに目をやり、
その日、その時、
最もお得なものを買い出しに行く。

夕食を作り、食卓に並べる頃は
もうグデングデンだった。
(ちなみにお袋は料理を作らなかった)
酔ったまま、
半分目を閉じてご飯を食べたりするので、
よくお袋に怒られていた。

そんな親父に、

「真面目にやっているのか?」

と酩酊状態で聞かれても
なんも通じないのだが、
さすがに冨士夫が我が家に
遊びに来たときは緊張した覚えがある。

『タンブリングス』をやり始めた年だったので、
アンプを預かっていて、
冨士夫たちがそれを
ピックアップしに来たのだった。

当然と言っちゃ何だが、
親父はロックが大嫌いだった。

ビートルズやストーンズを
あまりにも「くだらない」と言うので、
小学生の時だったか、
ビートルズの“ハローグッバイ”を聴かせたことがある。

すると、
「お前、こんな幼稚な歌を聴いているのか!?」

って、ますます呆れられたのであった。

(“ハローグッバイ”の歌詞が悪かった。そのまま真に受けてしまったんだね)

話が外れたので戻そう。

(冨士夫が訪れた)その時の親父は、
入院から自宅療養に切り替えていた時で、
本人は治ると思っていたのだが、
家族は覚悟を決めていた時期だった。

それこそ、いつ黄疸が出てくるのか
戦々恐々としているところに、
“ロックの申し子”のような冨士夫が
我が家を訪れて、
親父と対峙したのだからたまらない。

“頭に血が昇って、親父の体調が急変するんじゃないだろうか?!”

根が単純な僕はそんな危惧をした。

そのときの親父と冨士夫は、
少しの時間ではあったが、
「初めまして」と共に、
応接間で茶飲み話をした。

ぎこちなくはあったが、
何事もなくshyな男同士の会話が交わされ、

「じゃあ」

と言って、苦笑いをしながら
帰って行く冨士夫を見送って、
すでに台所に立っている親父の元に戻ると、
何やら夕食の支度をしている親父が、

「アイツは良い奴だから大切にしてやれ」

と、言ったのだ。

“えっ!?”っと、思わず耳を疑った。

どういう風の吹き回しかわからないが、
確かにそう言ったのだ。

それから少ししてから親父は再入院した。

それ以来二度と自宅に戻ることはなかった。

享年58歳。
今のように日々寒さが増してくる
10月の終わりであった。

親父が亡くなった後、お袋は、
親父の軽自動車が軽く買えるような
値段のするデカい仏壇を購入した。

そこに毎日欠かさず線香をあげていたのだ。

そのお袋も去年の夏、
新たに仏壇に乗車したので
今度は僕が線香を上げている。

仏壇に向かって毎日拝むたびに思うことがある。

小心者で堅実だったけど、
その分、浴びるほどの酒を飲んで、
この世の憂さを晴らしていた親父と、
酒は一滴も飲めないが、
いざとなると有り金はたいて
贅沢をしながら非現実に飛んでいたお袋は、
お互いが必要な存在だったのだろう。

そういえば親父はずっと
区の生活指導委員をやっており、
よく幼かった僕を連れて
地域の施設周りをしていた。

「悪い奴が不良になるわけじゃないんだ」

が口癖で、我が家には
施設にいた不良学生がよく出入りし、
大人になっても慕って来る輩もいた。

もしかすると親父は、
あの時、冨士夫と話しながら、
(冨士夫は施設のことを話していたから)
子供たちの面倒を見ていた頃の
元気な自分が浮かんだのではないだろうか。

もうすぐ親父の命日が来る。

人生には色々な価値観があるが、
何もかもどうってことないのだと思う。

悪い時は思いっきり気分を切り替えて、
良い時はケチンボになっても良いのだ。

そんな想いや考え方を、
身をもって教えてくれた両親に、
心から感謝するのである。

(2022/10/25)

PS/

11月19日土曜
B side sounds(土浦市)