第48怪/山口冨士夫とよもヤバ話/番外編『妹尾隆一郎さんと一夜限りの共演』

第48怪/山口冨士夫とよもヤバ話/番外編『妹尾隆一郎さんと一夜限りの共演』

「トシ!宝くじで10万円当たったから早く来いよ!」

という突然の連絡を冨士夫からもらった。
金も返すが旨いもんでも食おうと言うのだ。

僕は文字通り小躍りしながら
冨士夫の家に飛んで行った。

あれは何十年前の春だったのだろうか?
景色が変わり、
“ここから何もかも変えていこう”
という思いが溢れる季節。

犬のように喜んで来たことを覚られないように、
なるべく平静を装って冨士夫の家に着いた。

「よく来たね」

冨士夫が笑顔で迎える。
僕は小刻みに振っている尻尾を隠すように応えた。

「春になったね」

「そうだね、今日から4月だから」

と言いながら意味ありげに微笑む。

そうか、“今日から4月か”
と冨士夫の言葉を反復した途端、
“まさか!?”と思った。

“エイプリール・フール”なのである。

それをここで使うのか…!?

あの時の喜びと落胆の差を僕は一生忘れない。

「騙されたぁ!」

って、無邪気に笑っている冨士夫を見て
心が抜けていく気がした。

「こんなことでも言わなければ、なかなか来てくれねぇじゃねぇか」

と缶ビールのプルトップを開ける冨士夫を見て、
“そんなに俺に会いたかったのか”
と思うことにした。

何の話があったわけじゃない。
ダラダラと世間話をして、
冨士夫が奏でる鼻歌をBGMに
日が暮れるまで過ごすのだ。

若い頃は目の前にある時間に追われ、
立ち止まることにさえ罪悪感があった。

その真逆にいたのが冨士夫たちで、
時々こうしてワーカホリック信仰から
助け出してくれていたのであった。

今となっては、その何もしない時間が
宝物のような景色として思い出される。

………………………………

当時の僕はデザイナーになりたてで、
跳ねてばかりいる魚のようだった。

そのころ担当する会社の一つに
『ラジオシティレコード』という
文化放送系のレーベルがあった。

そこに所属するアーティストの
レコード・ジャケットから広告までを、
あれこれとデザインするのだ。

石川優子/シンデレラサマー(1981)

『ラジオシティレコード』は、
小さくてアットホームな会社だった。

ジャケットのデザインをすると
レコードの見本盤を貰うので、
それを家に持って帰ったりする。

ちょうど北鎌倉の我が家に冨士夫が居る頃で、

「葛城ユキは知っているよ。俺がそのうちにまた音楽をやることになったら、その時は俺のも頼むよ」

なんて、茶化されたのを覚えている。

そのときの冨士夫は
音楽をすっかり辞めていた時期だった。

“『裸のラリーズ』で燃え尽きた”とか、
“『村八分』を極限まで突き詰めた”とか、
音と訣別する理由は色々とあったが、
見る限りは音楽を辞めて
ホッとしているように見えた。

そこにいる、冨士夫は実に良い人で
優しさに溢れる存在なのであった。

もし、あのまま誰からも期待されず、
世間が彼を放っておいたとしたら、
ゆっくりとした時間の流れの中で、
また違う人生があったのかも知れない。

でも、まぁ、それは、
誰にでもある『たられば話』なのだろうが。

実際の冨士夫は、
そこから2年後に音楽を再開する。

『RIDE ON』を発売して、
キャンペーンLIVEを連続して行っていくのだ。

僕はその頃、
デザイナーとして少しは成長していたが、
『ラジオシティ』の仕事は相変わらず継続していた。

しかし、この頃の『ラジオシティ』は
少しばかりシリアスな状況にあった。
あまり売れていなかったのである。

そこでディレクターのS氏が起死回生の策に出る。

妹尾隆一郎率いるインストバンド、
『デイブレイク』のフュージョン・アルバムを
制作して発売したのである。

Daybreak – Daybreak (1980) Jazz Fusion
妹尾隆一郎/Bh率いる◆デイブレイク(寺中由紀夫Gu/山崎美樹Dr/井出隆一Ky/小松伸一/Ba)

当時はフュージョンが流行っていた。
ロックでもブルーズでもジャズでもなく、
テクニックを活かした
演奏力で聴かせるフュージョンは、
ヤッピー(yuppie/ベビーブーム世代で知的職業についているエリート青年)を中心に絶大な支持を得た。

今みたいにPVを流すメディアもないから、
『デイブレイク』のイメージ映像を
制作してスクリーンに投影し、
渋谷のエキュピュラスを借り切って
単独コンサートを行ったりした。

同時期に僕らが携わっていた
🎵ダバダ〜🎵と音楽が流れる
某珈琲会社の(雑誌)広告にも、
妹尾隆一郎のブルースハープを登場させた。
(違いのわかる)男の持ち物として紹介したのである。

………………………………

そんなある日のこと、
いつものように『ラジオシティ』を訪ねると、
妹尾さんたちが談笑していた。
僕も仲間に加えてもらいたく、
話題を探している中で
何となく冨士夫の話をしてみたのだ。

ちょうど『RIDE ON』の発売LIVEを
やっていた時期だったので、
何気なく話しただけだったのだが、
妹尾さんは前のめりに聞いてきた。

そうなるとこちらは生来のお調子者である。
話の流れで妹尾さんにゲストで
セッションをお願いすることになったのだ。

そして、次に思い描くシーンは
横浜の『シェルガーデン』ということになる。

1983年4月、
今のように春めいた季節の中、
不夜城のように忙しい会社を抜け出して、
横浜の『シェルガーデン』に到着したら、
楽屋に妹尾さんが居たのだ。

冨士夫たちとなごやかに
談笑しているのを見てほっとした。
お互いを紹介する時間がなかったのだ。

だからスタジオにも入らず、
本番前のリハーサル時間だけで
お互いの音を合わせることとなった。

ゆえに、この夜のステージは
それなりの緊張感があった。

どういうわけかこの日のステージには
青ちゃんがいないのだ。
冨士夫とマサ(青木正行/ex外道)とヒデ(小林秀也exTooMuch)
の3人で行うステージも初めてなのだが、
まだバンド名も正式に決まっていないという、
本当にバンド活動の初期の段階なのであった。

僕の記憶の中では
そのような状況の中で、
不安定な感覚しか残っていない。

リハーサルの時間も取れずに
決して多いとは言えない客入りの中での、
冨士夫たちと妹尾隆一郎さんとの一夜限りの共演は、
霧の中での遠い出来事のように
記憶していたのである。

だから、今回、『GoodLovin』から
『山口富士夫REAL LIVE 1983』が出ると、
その音を聴いてみた時、
正直に言ってほっとした。

思っていた(記憶していた)よりも
ぜんぜんいいステージだったからだ。
いや、冨士夫のステージの中で
これだけブルーズに寄った内容は他にないだろう。

それはやはり妹尾さんの存在と、
冨士夫、マサ、ヒデの技量に相違ない。

ステージが終了すると、
「すぐに帰らなければならない」
と言う妹尾さんに、
少ないギャラを渡したのを覚えている。

妹尾さんは、
交通費にも満たないであろう紙幣を受け取り、
それでも笑顔で礼を言って去って行った。

それ以来、妹尾さんにはお会いしていない。

あれは、4月のいつだったのだろうか?
確か終わり頃だったと記憶しているが、
4月1日ではなかったことは確かである。

だって、エイプリル・フールの冨士夫は、
嘘つきなのだから……。

(2024/04/13)

4/19 金『{高円寺SHOWBOAT』
“降りしきる夜”at 高円寺SHOWBOAT
●藻の月
●DEEPCOUNT
●PIGMEN
●Froor DJ: ENAN
19:00open/19:30start
2500YEN/2800YEN/+1D

6/14金『高円寺SHOWBOAT』
Halfmoon🌓月見る夜会
◉藻の月
◉the GOD
◉すばらしか
◾️DJ TeT3
19:00open/19:30start  
2300YEN/2800YEN/+1D

7/4 六本木『GT LIVE TOKYO』
ASTRAL BOOGIE presents
Soul Imagination Vo.1
◉ASTRAL BOOGIE
◉藻の月
◉THE BLOODY KNIFE
開場/開演18:30/19:00
前売/当日 ¥3,500/¥4,000(+drink代)

東京都港区六本木七丁目12-14
United Trust Building II
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